経験豊富なコーチが語る『スキーの魅力』

コーチの視点

高山レーシングの森本賢吉 監督と瀬木智史コーチにインタビュー

森本 僕は小学校1年生の時に初めてスキーを履いて、高山レーシングの前進の高山市スキー協会に入りました。中学の時は全中予選で1本目ラップ、2本目棄権。みたいな成績ばっかで、コーチからはお前もうちょっと考えて滑れよって言われていました。同級生にナショナルチーム横田昇平やデモンストレーターの石水克友がいて飛騨から3人で岐阜第一高等学校に進んで、大学は中央大学へ行ってスキーを続けてきました。インターハイは9位、インカレは10位、学チャン2位と入賞圏内ギリギリのところを彷徨っていましたね。大学終わってすぐに岐阜県スキー連盟の井上春樹さんからお誘いを受けてコーチとして仲間入りさせてもらったのがコーチとしてのきっかけでした。ちょうど高山レーシングの麗らが県連の強化選手にいた頃で全中やジュニアオリンピックなんかで活躍したりして、そういう中でコーチングの楽しみを学んでから、今の高山レーシングにコーチとして戻って来ました。

瀬木 僕は始めたのは遅くて小学校5年生の時にチームに入って、同年代がポール練習をしてる横で小学校2、3年生の子と一緒に連なって滑ってました。中学校の時に、運よく強化選手の中に入れてもらうことができて、それでしっかり競技をし始めました。高山高校へ進み3年間やりましたが、中学、高校では目立った成績はなく、高校3年の時に岐阜で清流国体があって岐阜県枠でスラロームに出たのが初の全国大会出場でした。その後大学では、3年生のときにインカレのメンバーに入れましたが目立った成績はなく、社会人になって芽が出て来た感じです。飛騨に戻ってきて、高山スキー場に行った時に高山レーシングのジュニアだよって紹介された選手が3人か4人しかいなくて、ジュニアの育成に力を入れたいなと思い高山レーシングに携わるようになりました。

今の子供達を見てどうですか

森本 僕らの時は雪がふりゃスキーをするのは当たり前。学校でも冬になると体育はスキー。ちょくちょく行ってたので常に身近にスキーがあったけど、最近は雪国と言われている高山でもスキーが身近でなくなって来てるのかな。

瀬木 いろんなスポーツをやる環境が良くなって、昔だったらスキーくらいしかなかったのが、今は選択肢が多くなったということだと思います。むしろスキーの環境や物は昔よりは良くなっていると思います。昔は野放しで自由でした。

森本 僕らの時って夏は野球とか陸上やって、冬はできないからスキーをやりますっていうのがほとんどでしたね。今は子供たちも少なくなって来て、野球チームも自分のところだけで作るとなるとコーチたちも離れられては困るというような状況もあると思いますね。

僕の持論ですけどスキーだけやってれば速くなるってもんじゃないと思うんです。W杯選手を見てもサッカーのナショナルチームに入れるくらいの選手がいたり、テニスの上手い選手もいたりします。小学校低学年くらいまでは出来る限りいろんなスポーツをやって動きの幅を増やし、いろんな動きが出来るようにしていけば専門的なスキーに行った時に習得能力が全然違うと思うんです。スキーも低学年は遊び感覚でどんなところでも滑りに行くとかっていうのが良い。僕らも子供の頃は自由時間にはそういうところを探して行ってたんで、自然とそういう滑り方が身について来てる。整地されてないボコボコのとことか楽しかったです。

瀬木 スキーで使う動きって限られていると思うので、能力を高めようとしたら、自分の体を思い通り動かせるような器用さって必要です。僕は元々コブとか嫌いで、パウダーとかも滑り方さえわからないし、やったことがなかったんです。昔インカレメンバーに入れなくて自暴自棄になった時に、楽しもうと思って昔のスラロームの板を引っ張り出してコブを滑ったんです。板がヘタってそってしまうくらい練習してたら滑れるようになって楽しくなって来たんです。その後にポールに入ったら、どんだけ荒れてても平気で自信がついたんですよ。人に教わってああしろこうしろって言われるよりも自分で滑ってその中でこういう風に滑ったらこういう場面も滑れるなと覚えた方が早いし、自分の身になるし。自分の中で滑り方のバリエーションが増えたんだと思います。僕は大学生の時に身をもって体験しました。

森本 スキー人生で一番衝撃だったのが、中2の時に初めて全中に出た時、新潟の八海山で雪が柔らかくてボコボコになるところで、膝まで隠れるようなボブスレーみたいなコースを130番スタートの選手が3位に入ってきたんです。当時、北海道の予選で失敗して出走が遅かった佐々木明選手でした。あれが一番衝撃的でした。もちろん技術はあったと思いますけど、後に佐々木さんも本にも書いてますけど、いろんなスキーを履き替えては山行って林の中滑ったり、スキーは遊びだと。

やっぱりそういうとこなのかなと感じますよね。それが遠回りに見えていろんな能力をつけて近道だったりするのかなと思います。

瀬木 飛騨のスキー場は全国的にみてもコースづくりが凄く上手で、それが故に選手は荒れたコースが苦手なのかもって思う。環境が良すぎるのかも。他県だと荒れたら荒れっぱなしの所で練習してて、それはそれでいい練習だなって思う。

ただ、怪我の事を考えるとコーチ陣としたらコース整備したいところですけどね…。

レースに出ることを軸にする

瀬木 やっぱり最終目標はこれがないと揺らいじゃうので大会に出てというのを置いてますけど、そこまでたどり着くいろんな道筋があって良いでしょう。

森本 スキーを通して人間性を高める。挨拶、整理整頓、礼儀とかっていうのを基礎としてやっているのはコーチとしても大切にしながら、もちろん大会に出て良い成績っていうのは選手に望むことではあるんですけど、僕としてはできんかったことができるようになったとか、そういう目標をクリアってのは選手にとってもやりがいになると思いますし、もちろんそれが続いてってレースで結果が出ればモチベーションも上がっていくでしょう。それぞれきっかけっていうのは必ずあると思うので。そこへ導いてあげるのが仕事かなって思います。

導入は「あいつが居るで行く」、連れと飴ちゃん隠し持って一緒にリフトに乗るのが楽しくてとか、大会とか出れば「なんやあいつ速えーな」とかってのがでてきて負けたくないとか。そういう芽生えるきっかけっていうのはそれぞれあるのかなって思います。

瀬木 最初の頃はコーチも手がたらなかったので、同じ方向性を持った子が集まるなら全然一人で見てても良いんですけど、選手の幅が増えて来た時にどうしようと思っていました。でも今は幅広いコーチがいて、世界のトップを見て来た人から学生時代に上位入賞した選手、僕みたいにスキー生活20年目になってようやく芽が出たようなのから、面倒見の良いコーチまでいます。その辺は選手の要望に応えれる環境になったかなと思ってます。

森本 まあ今こういうスタンスでやってきて、そういうレベルの高い選手が出て来た時は、その受け皿は岐阜県スキー連盟の強化選手だと思うんです。僕も県連から高山レーシングに入らせてもらった時になんとか高山レーシングからそういう子を強化選手に送り込みたいなと思ってました。

当時、県連のコーチをした時に強化選手も高山スキー場で高山レーシングの練習に混ぜてもらって練習したりしたもんで、連携は取れてましたし、僕も岐阜県スキー連盟の春樹さんなんかと情報を共有しながらうまくできてた気がします。

岐阜県スキー連盟の技術的な情報もクラブに提供したり、コーチセミナーをしたりっていうことがあって、身近な存在になって来てるのかなっていうのはありますけど。

技術的な情報ってのは常にコーチ陣では共有して、こういう年代ではこういう練習しましょうねっていうのがあるけど、練習してる中でなかなか成績が伴ってこない時期っていうのが絶対あって、そういう時は本当に歯痒いんです。でもなんとか僕らもそれを信じてやる。焦って練習を変えるっていうのはしないように、じっくりという思いはあります。

なかなか芽が出ないということはありますし、正直その先必ず芽が出るかってわかんないじゃないですか。でも僕らもそこを信じてやっていかないとできないんですよね。

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